「宿世」とは、梵語の pūrva または atīta の漢訳語とされ、本来は三世の過去世を意味する仏教語である。平安時代の仮名文学では「前世からの因縁」と訳され、現世での幸不幸は前世から定まっている、という意味になる。この言葉は、平安中期の和文一般より『源氏物語』に突出して多く用いられている。『源氏物語』には、同時代の他の文献ではさほど注目されない言葉を多用して、新たな物語世界を開陳する例が見られるが、「宿世」の語もその一つである。
本稿は、まず日本文学史を概観し、源氏物語研究の動向を確認した上で、『源氏物語』における「宿世」の語が、いかにこの物語の構造の形成に参与しているかについて、考察するものである。
日本文学史では通常、上代・中古・中世・近世・近代・現代の時代区分を用いる。
「上代文学」とは奈良時代の文学である。日本語を記す独自な文字を持たず、すべてを漢字で記載した時代で、和歌を集めた『万葉集』をはじめ、歴史書の『古事記』『日本書紀』や地誌の『風土記』、漢詩集の『懐風藻』などがある。
「中古文学」とは平安時代の文学である。平安時代は792年から12世紀末までだが、最初の数十年は和文でも漢字で表記されたため、上代文学に含める場合もある。また最後の約一世紀、いわゆる「院政期」は中世とみる場合も多い。そのため一般に「中古文学」とは主に、九世紀後半ごろの仮名文字の発明以後、十一世紀ごろまでの文学を指す。平安初期には『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』といった勅撰漢詩文集、十世紀初頭以降は『古今和歌集』をはじめとする勅撰和歌集が編まれた。個人の歌を集めた私家集の編纂も広まり、「歌物語」と称される『伊勢物語』『大和物語』『平中物語』なども生まれた。『竹取物語』『うつほ物語』『源氏物語』『狭衣物語』などのいわゆる「作り物語」や、『土佐日記』『蜻蛉日記』『紫式部日記』『更級日記』などの仮名の日記も残る。昨今は貴族の漢文日記、いわゆる「古記録」その他の漢文の文献も視野に入れた、総合的な研究が進められている。
「中世文学」とは、平安末期の院政期から鎌倉・室町・安土桃山時代に到る、武士による戦乱、動乱の時代を含んだ数百年にわたる文芸を指す。前時代から継承した王朝文学の研究や、それを踏まえた新たな和歌や物語の創作が進む一方で、次第により幅広い階層へと文芸の素材が開かれていく。『今昔物語集』『古今著聞集』などの「説話文学」、『平家物語』『太平記』など戦乱や動乱を物語化した「軍記物語」、和歌に端を発した「連歌」、庶民にも親しまれた「歌謡」、演劇の「能狂言」など、文芸の様式も拡大した。
「近世文学」は江戸時代の文学を指す。筆で書き写すことで書物が流布した前時代までとは大きく異なり、木版印刷された「版本(板本)」によって大量の複製できるようになり、特権階級に限らず、多くの人々が書物に接することができるようになった。「読本(よみほん)」「滑稽本」など種々の小説が刊行され、「草双紙」など絵入りの小説も楽しまれた。連歌に端を発した「俳諧」、新しい演劇「歌舞伎」も人気を博し、古典を学び継承する「国学」も発展、今日の国文学研究の基礎をなした。
以下詳述は控えるが、一般に「近代文学」は明治維新以後の文学、「現代文学」は第二次世界大戦後から現在に到るまでの文学を指す。
さて、『源氏物語』の研究史的状況について、簡単にまとめておきたい(1)。日本の古典文学研究において、源氏物語研究は良くも悪くも突出した状況にある。そもそも『源氏物語』は成立直後から「研究」が始まった。『更級日記』は「源氏五十余巻」に言及、種々の面で影響を受けつつ叙述する(2)。『栄花物語』が藤原道長を中心とする平安時代の現実の歴史を叙述する際にも、『源氏物語』という虚構の物語の叙述方法を通して組み立て直すなど、『源氏物語』の後の物語や日記への影響は多大である。当時『源氏物語』がいかに重要視されたかは、鎌倉時代初期の物語評論『無名草子』の長大な批評や、十三世紀後半の『風葉和歌集』における圧倒的多数の源氏物語歌の採録などからも明らかである。
『源氏物語』成立から約二〇〇年後の鎌倉時代初期には、藤原定家周辺でいわゆる「青表紙本」と呼ばれる本文整定がなされ、また「河内本」と呼ばれる源光行・親行による本文整定の動きがあり、今日読まれている『源氏物語』の原型が形成された。当時制作された写本群のうち現存するのはごく僅かだが、その後の写本の基盤が作られた模様である。『源氏物語』は中世、鎌倉時代から室町時代にかけて、為政者たちの庇護を受けながら書写を重ね、注釈が積み重ねられた。江戸時代に入り、印刷文化の浸透とともに、物語本文と注釈を具備した『湖月抄』が版本の形で流布し、多くの人々が読めるようになった。『湖月抄』の本文には複数の系統の本文が混じっており、今日では評価は高くないが、『湖月抄』は近代の与謝野晶子や谷崎潤一郎の現代語訳にも利用されるなど、近代まで読み継がれた。
近代の源氏物語研究の記念碑的な成果は、池田亀鑑による本文研究であろう。関東大震災ののち、災害による文化遺産損壊の危機感から、残存する写本を校合して諸本の校異が一覧できる『校異源氏物語』(1942年)、『源氏物語大成』(1953~56年)が刊行され、文学研究の基盤となる校訂本文が整えられた。
そもそも写本でしか残らない古典の本文の場合、諸本をいくつかの系統に分類し、比較的良質な本文を見極めて校訂本文を作成するところから、研究は始まる。かつては底本を尊重しつつもより良質な校訂本文を目指すのが主流で、たとえば小学館新編日本古典文学全集の『源氏物語』は、青表紙本系の一写本「大島本」を底本としつつも青表紙本系統の他の諸本と校合し、多数ある本文を重視して校訂した。一方、今日では比較的良質な一写本を尊重する傾向にあって、岩波新日本古典文学大系は同じく「大島本」を底本として採用しながらも、できる限り忠実に底本を翻刻する方針が取られ、いずれが適切な校訂方針かは議論の途上にある。
ともあれ、戦前の池田亀鑑による一定の信頼できる校訂本文の作成によって、その後の物語の内実の解釈や文学的理解の研究が飛躍的に発展したことは疑いない。こうした状況は、本文研究から成立論の段階をなかなか抜け出せなかった『伊勢物語』の研究などが置かれた状況とは、大きく異なるものであった。
もとより『源氏物語』についても、成立論は多く重ねられてきた。石山寺で須磨巻の「今宵は十五夜なりけり」から書き始められたという『河海抄』の説は伝承に過ぎないとはいえ、たとえば武田宗俊は、桐壺巻や若紫巻など、長期にわたって登場する人物の動向を語る巻を「紫上系」、帚木巻にはじまる帚木三帖、その後日談である蓬生・関屋巻や玉鬘十帖などを「玉鬘系」と名付け、玉鬘系があとから挿入されたとした(3)。こうした各巻の成立の前後関係を想定する成立論や構想論は、第二次大戦後間もなく盛んだったものの、外部徴証が少なく、物語内部の整合性から推論するほかない状況下で、明確な結論に到らないまま終息した。代りに、成立論や構想論の過程で問題となった諸事象、たとえば人物の年齢や呼称、時系列上の矛盾などは、構造論上の課題として引き受けられ、読み替えられていった。
一九七〇年代以降、ロラン・バルトの「作者の死」といった提唱を受けて、いわゆる〈テクスト論〉が隆盛した。言葉がいったん作者の手を離れてしまえば、解釈は読者にゆだねられるものだという考え方である。〈作者の意図〉が抽出できるとするのは一種の幻想で、時にそれは〈読者〉の自由な解釈にすぎないことにもなる。この考え方は読者の行き過ぎた勝手な解釈の暴走を許すことにもなって、修正を余儀なくされたが、その議論の過程で、作品と作者の関係に一定の疑義が呈されたことは極めて有効であった。少なくとも『源氏物語』は紫式部という個人の実人生の反映だ、といった素朴な理解には、留保がつくようになったのである。
また、一九七〇年代以降の構造主義の広がりは、源氏研究にも大きく影響を及ぼした。源氏研究における構造論は、王権論とも関わりながら、物語の理解を深めていった。天皇制との関わりで物語を理解する動きは、功罪あったとはいえ一定の成果だった。天皇になれる資質を持ちながら臣下に下った光源氏が、藤壺との密通によって不義の子をなし、その子が桐壺帝の子として育てられて即位することで、結果的に光源氏は天皇の父として准太上天皇に処遇されるという理解は、王権論的な「あらすじ」であり、今日の通説的理解でもある。
だが、構造主義が脱構築へと向かう思潮の流れに伴い、源氏研究も変容する。でき上がった完成体としての光源氏の物語の構造は、さまざまに批判され、修正を余儀なくされた。一九九〇年代にはフェミニズム批評やポストコロニアルの潮流を受けて、光源氏中心主義的な物語理解への批判も強くなった。物語に登場する人物たちの身体表現や、作中に登場する女房などの端役が注目され始めたのも、この時期である。『源氏物語』を中心に構築された文学史も批判され、これまで光の当たらなかった新たな作品の発掘が課題として浮上した。
一九九〇年代以降、大学組織の改編による学際化という波を受けつつ、時流は次第に領域横断的な研究へと傾斜する。テクストを自立的な作家の産物と捉えるのではなく、同時代の多様な言説のうちの一つとする動きが強まったのである。この〈同時代言説〉への関心という文学研究を襲った潮流は、平安文学の場合、歴史資料、漢文、和歌、仮名文などを含めた多種多様な文献のるつぼの中で、当該テクストをいかに位置づけるかという課題となった。
いったんテクストを〈文学〉として特別視せずに、文学/非文学の境界を取り払う動きが強まった後に、歴史資料などの諸テクストを視野に入れつつ、なおいかにして〈文学〉が研究の対象となり得るか、それが現在直面する課題とも言えよう。
さて、こうした源氏研究全般の状況を踏まえて、本稿で扱う「宿世」の課題とはいかなるものか、簡単に整理しておきたい。
「宿世」とは冒頭で述べたように本来仏教語であるが、平安朝の仮名文学においては「前世からの因縁」の意で用いられる。時に「契り」「さるべき」といった表現も類義語として指摘されるが、「宿世」「さるべき」「契り」それぞれの用法には特性があり、単純には同一視できない。「宿世」の語の『源氏物語』以前の用例は、たとえば『伊勢物語』1例、『蜻蛉日記』5例、『うつほ物語』12例で、一方『源氏物語』には120例と突出して多い。単純な訳語から想像される以上に、特別な役割を付託された言葉であろう。
『源氏物語』における「宿世」については、歴史社会学(4)、仏教学(5)、文芸学(6)、語義の検討(7)など、多様な立場から吟味されてきた。構造論や王権論の一角でも論じられ(8)、とりわけ日向一雅氏は「家の遺志と構造」との関わりで「宿世」を論じ、物語の構造と主題に関わる問題として捉えた。その後、日本思想史(9)からの考察もあり、諸研究の総括(10)もなされ、稿者自身もかつて二度ほど論じた(11)。近年は語義の検討に傾きがちにも見えるが(12)、稿者の関心は、むしろ「宿世」の領導するこの物語の構造とその動態にある。以下、「宿世」の文脈を検討しながら、『源氏物語』の構造的特性を明らかにしたい。
『源氏物語』における「宿世」の語は、しばしば「うし」などの語と近接して用いられ、自らの不本意な人生を容認する事例が、とりわけ女君に多いことはすでに指摘されている。致し方ない人間関係を受け入れる場合に、これは「宿世」だからと納得され、それが他者との関わりの中で認識される場合も多い。また逆に、他者から批評される場合には、少なくとも表向きは良い意味で、時には羨望を籠めて用いられる場合も、まま見られる。
たとえば空蟬の物語を見てみよう。継子の紀伊守は、以下のように光源氏に語る。
「……世の中といふもの、さのみこそ、今も昔も定まりたることはべらね。中について も、女の宿世はいと浮かびたるなむあはれにはべる」
(帚木巻、小学館新編日本古典文学全集『源氏物語』①96頁)
帝から宮仕えの要請まであったという空蟬が、伊予介の後妻となったことについて、男女の仲は無常のもので、特に女の「宿世」は定まらず可哀そうだと言う。空蟬の人間関係にとどまらず、この物語の主題めいたものを、紀伊守に語らせたともいえる。
その空蟬は、「宿世」という語を通して自己認識する女君の典型である。たとえば、方違えのために訪れた光源氏との突然の逢瀬の後、小君が持参した光源氏の手紙を見て、空蟬は「目も及ばぬ御書きざまも霧りふたがりて心得ぬ宿世うち添へりける身を思ひつづけて臥したまへり」(帚木巻①107頁)と「宿世」を自覚する。「心得ぬ宿世」とは、光源氏との不本意な関係を結んだこととも考えられるが、格別にすぐれた筆跡に感涙しており、光源氏を嫌悪しているわけではない。
光源氏は、返歌も寄越さない空蟬に執着し、再び紀伊守邸を訪れる。
……心の中には、いとかく品定まりぬる身のおぼえならで、過ぎにし親の御けはひとまれる古里ながら、たまさかにも待ちつけたてまつらば、をかしうもやあらまし、しひて思ひ知らぬ顔に見消つも、いかにほど知らぬやうに思すらむ、と心ながらも胸いたく、さすがに思ひ乱る。とてもかくても、今は言ふかひなき宿世なりければ、無心に心づきなくてやみなむ、と思ひはてたり。 (帚木巻①111頁)
光源氏を案内しようとする弟の小君に対して、空蟬は体調不良で人に介抱してもらっていると偽って断りながらも、内心、伊予介の妻として定まった身の上ではなく、親の住んでいた余韻の残る実家で、たまさかに訪れる光源氏を待つのならよかったのに、と考える。「しひて思ひ知らぬ顔」、あえて情緒も分からぬふりをして、見て見ぬふりをしたら、どうお思いかと胸を痛めつつも、「今は言ふかひなき宿世」、今更どうにもならない「宿世」なので、物の情緒がわからない女と見せかけて、終わりにしようと観念する。
空蟬は、親の存命中ではなく、親の没後にでも一人で邸に住んで、光源氏の訪れを待てたらよかったのに、と考える。それはちょうど帚木巻冒頭の雨夜の品定めで、男たちが葎の門にひっそりと住む女に通うことを夢想したことの裏返しでもある。女の側も、たまさかに訪れる貴公子を待つ暮らしを理想だとするのである。しかし現実の空蟬は、年老いた受領の後妻でしかなく、その境遇に不本意ながらも「宿世」、前世からの定めだと納得せざるを得ない。光源氏との出会いによって、現在の境遇の不本意さが改めて認識させられるのである。この空蟬との関係における光源氏の所業は、現代のフェミニズム批評では糾弾を免れないが、ここはいったん、平安朝の物語固有の価値観に従って理解するべきであろう。
この帚木巻の空蟬の「宿世」の自覚は、十数年後の物語である関屋巻にも現れる。今では夫は常陸介となり、その任果てて上京する際、逢坂の関で光源氏と空蟬はすれ違い、互いに感慨を深める。そののち死期を察した常陸介は、子供たちに空蟬を託して遺言する。空蟬は「心憂き宿世ありて、この人にさへ後れて、いかなるさまにはふれまどふべきにかあらんと思ひ嘆きたまふ」(関屋巻②363~364頁)と、自らの「心憂き宿世」を嘆く。夫との死別を「さへ」と捉えているから、「心憂き宿世」とは光源氏との関係を踏まえていよう。
夫の常陸介の没後、息子であるかつての紀伊守、今の河内守が空蟬に懸想する。「いとあさましき心の見えければ、うき宿世ある身にて、かく生きとまりて、はてはてはめづらしきことどもを聞き添ふるかな」(関屋巻②364頁)と、空蟬は夫に先立たれた上に、継息子に求愛されて驚きあきれ、「うき宿世ある身」と思い知って、誰にも漏らさず出家したという。この「うき宿世」とは、空蟬のこれまでの異性関係の総体を指すのだろう。
このように空蟬は、親の存命中は宮仕えまで要請されながら、親を失った後には伊予介と不本意な結婚に甘んじた上に、光源氏とも通じてしまい、夫の没後は継子に懸想をされるといった具合に、度重なる不本意な異性関係と向き合うたびに「宿世」の自覚を深めていく。
総じて、光源氏との関係を通じて、「宿世」を意識する人物は少なくない。惟光の母である光源氏の乳母のことは、子供たちは「げによに思へば、おしなべたらぬ人の御宿世ぞかし」(夕顔巻①139頁)と評する。夕顔の四十九日の法要を光源氏が丁重にするので、文章博士は、「その人と聞こえもなくて、かう思し嘆かすばかりなりけん宿世の高さ」(夕顔巻①192頁)と評する。いずれの場合の「宿世」も、第三者が格別にすぐれた宿運を認めたもので、悪い意味ではない。ただし臨終や死後であり、すでに失われた幸運ではある。
まだ幼い紫の上の乳母の少納言は、惟光を相手に、「あり経て後や、さるべき御宿世のがれきこえたまはぬやうもあらむ」(若紫巻①250頁)と、やがては光源氏と関わる「御宿世」も受け入れるしかないけれど、と語る。また六条御息所も車争いの後に、「現のわが身ながらさる疎ましきことを言ひつけらるる、宿世のうきこと」(葵巻②36~37頁)と、死霊でさえなく、生霊となって人に取り憑いていると噂されるのは、つらい「宿世」だと自覚する。末摘花は光源氏が須磨に下ったのち忘れられ、女房達に「いと口惜しき御宿世なりけり」(蓬生巻②326頁)と評され、筑紫下向に誘う叔母にも「大将殿などおはしまし通ふ御宿世のほどをかたじけなく」(蓬生巻②339頁)と、光源氏からの庇護を「御宿世」と持ち上げながら、それを失った現状を侮蔑する。
このように、本意でなくとも逃れられない関係に生かされる女君の自己認識として「宿世」の語は現れやすく、往々にして「うし」の形容が伴われる。また他者から批評される場合、理想的ながらも今は失われた幸運が、「宿世」と評される場合が多い。
ただし、これらの空蟬、夕顔、六条御息所、末摘花といった女君は、光源氏との関係の顛末を「宿世」と自他から認識されるものの、それが光源氏自身の「宿世」に直接的に影響を及ぼす度合いは、さほど大きくない。一方で、光源氏と密通して不義の子をなす藤壺や、光源氏とは身分違いながらも娘を産む明石の君の場合、女君の側の「宿世」の意識に光源氏自身も連動させられる。以下、藤壺、明石の君、光源氏の順に論じたい。
藤壺は、年の離れた夫がいる身で光源氏と密通するなど、空蟬の造型との相似性がかねてより指摘されおり、「宿世」の自覚は、空蟬に劣らず藤壺にも色濃い。この藤壺の「宿世」の自覚は光源氏によってもたらされるが、即座に光源氏に跳ね返ってくるものでもある。以下は光源氏との密会後の叙述である。
宮も、なほいと心憂き身なりけりと思し嘆くに、なやましさもまさりたまひて、とく参りたまふべき御使しきれど思しも立たず。まことに御心地例のやうにもおはしまさぬはいかなるにかと、人知れず思すこともありければ、心憂く、いかならむとのみ思し乱る。暑きほどはいとど起きも上がりたまはず。三月になりたまへば、いとしるきほどにて、人々見たてまつりとがむるに、あさましき宿世のほど心憂し。
(若紫巻①232~233頁)
藤壺は、光源氏と心ならずも密通したのち、「いと心憂き身」、つらい身の上と思って、体調を崩して桐壺帝の催促にも応じられず、宮中に戻れずにいた。懐妊三か月で、周囲にも気づかれるという。藤壺は「あさましき宿世」、驚きあきれる前世からの因縁を「心憂し」と捉えている。「宿世」に「あさまし」との形容が付随するから、この「宿世」の認識は、光源氏との関係による懐妊を指すと考えられる。さらに藤壺に身近に仕える乳母子の弁や命婦も不審がり、「なほのがれがたかりける御宿世をぞ、命婦はあさましと思ふ」(若紫巻①232頁)とここでも「あさまし」とあって、王命婦からも避けがたい「御宿世」と見られている。不義の子の懐妊という事態と関わって「宿世」の語が二度も用いられ、この直後に光源氏は数奇な運命を示唆する夢、いわゆる〈第二の予言〉がある。
藤壺の思念に「宿世」の語が出現する次の例は、桐壺院崩御後、光源氏が藤壺の寝所に接近してきた折である。光源氏が藤壺を引き寄せるので衣だけを摑ませて逃げるものの、
……心にもあらず、御髪の取り添へられたりければ、いと心憂く、宿世のほど思し知ら れていみじと思したり。 (賢木巻②110―111頁)
と逃げきれずに「心憂く」と悔しく思い、自らの「宿世のほど」、前世からの宿運に絶望するも、何とか逃れきって関係は結ばずに済んだ。その後、藤壺は桐壺院一周忌を終えた日に突然出家するが、そのあたりには「宿世」の自覚は見られない。
「宿世」の語は、須磨の光源氏との文の往還に際しても見える。
入道の宮にも、春宮の御事により、思し嘆くさまいとさらなり。御宿世のほどを思すに は、いかが浅くは思されん。 (須磨巻②191頁)
光源氏が須磨に下ったことを東宮のために嘆くのだから、「御宿世のほど」とは、光源氏と子をなした関係への自覚であろう。光源氏が東宮の出生の秘密を口外しないまま都を去ったことを、「あながちなりし心のひく方にまかせず、かつはめやすくもて隠しつるぞかし、あはれに恋しうもいかが思し出でざらむ」(②191頁)と藤壺は内心感動しており、それゆえに須磨からの光源氏の文に応じるのだという。
こうしてみると、藤壺の場合、光源氏による強引な関係から不義の子を出産するという予想外の事態、すなわち、もっぱら光源氏との関係において、「宿世」を自覚する。これは光源氏と関わる他の女君と相似的だが、藤壺が意識した「宿世」は結果的に光源氏に影響を及ぼし、予言の実現に参与していくことになる。
これからやや時を隔てて、須磨の光源氏は「わが身だにあさましき宿世とおぼゆる住まひ、いかでかは、うち具してはつきなからむさまを思ひ返したまふ」(須磨巻②207頁)と考えるのだが、これが光源氏の初めての「宿世」の認識である。須磨の地にあって初めて光源氏は「あさましき宿世」、驚きあきれる宿運だと自覚するのだが、その「あさまし」という形容語が、若紫巻での藤壺の「あさましき宿世」の自覚と同一であることは見逃すべきではない。なお石田穣二氏は、河内本には「あさましう心うき住まひ」と、「宿世」の語がないことを指摘する(13)から、青表紙本こそが、藤壺と光源氏の「宿世」の連動を意識した本文なのである。しかし青表紙本でも、光源氏の「宿世」の意識は藤壺の「宿世」の自覚に呼応するようでありながら、紫の上を須磨に招くべきではないという考えに流れ着いて、藤壺との関係は表層には浮上しない。
さて藤壺の「宿世」の自覚は、その最晩年にも見える。
宮いと苦しうて、はかばかしうものも聞こえさせたまはず、御心の中に思しつづくるに、高き宿世、世の栄えも並ぶ人なく、心の中に飽かず思ふことも人にまさりける身、と思し知らる。 (薄雲巻②444―445頁)
体調を崩して苦しんで物も言えないままに、自分の「高き宿世、世の栄え」が比類ないものだったと反芻する。死を前にして自己の栄華と憂愁の人生を反芻するという、後の紫の上や光源氏にも見える思考回路については後述するとして、ここでの藤壺の「飽かず思ふこと」、満足できない事とは何なのか。桐壺帝に入内したことか、光源氏と関係したことか、冷泉帝が桐壺帝の子でないことか、光源氏への内心の慕情のままに生きられなかったことか。これまでの藤壺の「宿世」の自覚が、一貫して光源氏との関係によってもたらされたことからすれば、ここでの「高き宿世」とは、光源氏との関係を通じて得た帝の生母としての栄光の自覚であり、それゆえの苦悩を「飽かず」と嘆いていると解釈してよいのではなかろうか。
空蟬や藤壺のように、光源氏とのやむにやまれぬ関係を通じて「宿世」を自覚させられる女たちに比して、明石一族の「宿世」の意識は特殊である。若紫巻において、北山から諸国を見下ろしていると、のちに良清と呼ばれる光源氏の従者が、明石一族の噂をする。
「……『わが身のかくいたづらに沈めるだにあるを、この人ひとりにこそあれ、思ふさまことなり。もし我に後れて、その心ざし遂げず、この思ひおきつる宿世違はば、海に入りね』と常に遺言しおきてはべるなる」 (若紫巻①203~204頁)
死を前にするわけでもない入道の日頃の訓戒を「遺言」と呼ぶこと自体が特異だが、のみならず、今後の明石の君の生き方を、父親の入道が「宿世」と名付けて決めている点で、先の女君たちの自覚とは、順序が異なっている。明石入道は、自身の家の繁栄のための野望達成の方針を、「宿世」と名付けて娘に押し付けるのである。
この明石入道の「宿世」の意識は、光源氏に対しても発せられる。明石一族の「宿世」は、光源氏と関わる都度ごとに確認される。先の光源氏の「あさましき宿世」の自覚の直後の叙述に、光源氏が須磨に来たと聞いた入道は、自分の娘の「宿世」のせいだと言う。
「桐壺更衣の御腹の源氏の光る君こそ、朝廷の御かしこまりにて、須磨の浦にものしたまふなれ。吾子の御宿世にて、おぼえぬことのあるなり。いかでかかるついでに、この君に奉らむ」と言ふ。 (須磨巻②210頁)
明石入道は妻の尼君に対して、「吾子の御宿世」と、自分の娘の「宿世」のために光源氏は須磨に下ることになったのだと語る。たかだか元の播磨国守の娘の「宿世」が、光源氏の運命を大きく左右するという考え自体、常軌を逸している。
一方、妻の尼君は光源氏について、「忍び忍び帝の御妻をさへ過ちたまひて、かくも騒がれたまふなる人」(②210頁)と評する。これまで光源氏の側に寄り添う語りには見えなかった、物語世界での光源氏の風評を、都人とは異なる立場にある尼君が語るのである。「帝の御妻」まで過つとは朧月夜との情事の噂であろうが、一瞬、秘された藤壺との関係を想像させる。一方で入道は、「故母御息所は、おのがをぢにものしたまひし按察大納言の御むすめなり」(②211頁)と、桐壺更衣とは血縁だという素姓を明かす。娘の明石の君は、
身のありさまを、口惜しきものに思ひ知りて、高き人は我を何の数にも思さじ、ほどにつけたる世をばさらに見じ、命長くて、思ふ人々におくれなば、尼にもなりなむ、海の底にも入りなむなどぞ思ひける。 (須磨巻②211~212頁)
と、安易に結婚するまい、親に死に別れたら海に入水しようと考える。若紫巻で良清が語った明石入道の「遺言」と同内容で、娘自身、父の「遺言」に従って生きている様子である。
暴風雨の後に光源氏は明石に移り、明石の君に通い始めるが、まもなく都に呼び戻され、懐妊した明石の君を置いて帰京した。光源氏は明石の君が娘を産んだと聞くと、
男君ならましかばかうしも御心にかけたまふまじきを、かたじけなういとほしう、わが御宿世もこの御事につけてぞかたほなりけり、と思さるる。 (澪標巻②294頁)
乳母として派遣するに際して、「わが御宿世」が「かたほ」、須磨明石に行かねばならなかったのは、この姫君を得るためだったと自覚する。これは前掲の、須磨巻での明石入道の「吾子の御宿世にて、おぼえぬことのあるなり」という信念と見事に照応する。明石入道の信念は、明石の君の生き方を規制するだけでなく、光源氏までも巻き込むのである。姫君の乳母として明石に下った宣旨の娘は、明石の君と共に光源氏の手紙を見ては「心の中に、あはれ、かうこそ思ひの外にめでたき宿世はありけれ、うきものはわが身こそありけれ」(②295頁)と、明石の君の数奇な宿命を羨望し、一方で自らの身の拙さを嘆いた。
澪標巻、住吉に参詣した明石の君は、光源氏が参詣してきていることを知った。
なかなか、この御ありさまをはるかに見るも、身のほど口惜しうおぼゆ、さすがにかけ離れたてまつらぬ宿世ながら、かく口惜しき際の者だに、もの思ひなげにて仕うまつるを色節に思ひたるに、何の罪深き身にて、心にかけておぼつかなう思ひきこえつつ、かかりける御響きをも知らで立ち出でつらむ、など思ひつづくるに、いと悲しうて、人知れずしほたれけり。 (澪標②302~303頁)
光源氏の威勢に気圧され、明石の君は自らの「身のほど」を知らされる。「さすがにかけ離れたてまつらぬ宿世」と、光源氏との縁はわずかにつながっているものの、下賤の者でも知っている光源氏の近況も知らず、「何の罪深き身にて」と運命の拙さを自覚する。さらには、「数ならぬ身」(②305頁)と自覚し、神にも数の内と認めてもらえまいと、住吉参詣をやめて帰って行った。明石一行の動向を後に知った光源氏は、同情して歌を贈る。明石の君は「数ならでなにはのこともかひなきになどみをつくし思ひそめけむ」(②307頁)と「数ならで」と、身の拙さを返歌に詠んだ。
その後、明石の女たちは光源氏の要請に応じて都に上るものの、光源氏の邸には入らず大堰に居を構え、光源氏に通わせた。しかしそれも長くは続かず、やむなく娘を紫の上の養女に差し出したため、姫君の入内まで対面できなくなる。
やがて若菜上巻、娘の女御に付き添う明石の君は「あらまほしき御宿世なりかし」(若菜上④87頁)と語り手に評され、明石の君は、「この時にわが御宿世も見ゆべきわざなめれば、いみじき心を尽くしたまふ」(若菜上④一〇三頁)と娘の安産に自身の宿運をかける。その明石姫君が東宮の皇子を出産した報に接して、いよいよ山に入るという明石入道は、なぜこれまで奇妙な信念を抱いてきたか、事の真相を手紙で伝えてきた。明石の君が生まれる年、右手に須弥山を捧げ、山の左右から月日の光が差し出でて世を照らし、入道自身は山の下の陰に隠れて小さな舟で西に漕いで行く夢を見たという。それを夢のお告げと信じて、住吉の神に願をかけて長年を過ごしたのが、若紫巻以来の入道の奇妙な信念の根拠だったというのである。手紙を読んだ明石の尼君は、夫とともに明石に下って出家しながら、自分だけ再度上京した経緯を、「世人に違ひたる宿世にもあるかな」(若菜上④119頁)と慨嘆し、若君の立坊まで生き永らえるよう励ます光源氏に、「いでや、さればこそ、さまざま例なき宿世にこそはべれ」(若菜上④121頁)と一族の「宿世」を自認する。明石の君も、女三宮や紫の上の有り様を見ながら、「わが宿世はいとたけくぞおぼえたまひける」(若菜上④132頁)と優れた「わが宿世」を自負する。これらは珍しく、「宿世」の語が明石一族の栄達、その社会的成功を自認する形となっている。しかしなればこそその背後に、明石の尼君の夫とのつらい別れや、明石の君の娘との長い別居、そして現在も後見役に徹する忍従の苦悩が、察せられる文脈ともなっているのである。
ともあれ、明石一族の物語の場合、あらかじめ入道が「宿世」として、ある生き方を妻や娘に言い含め、その「宿世」を明石の君も愚直に受け入れ、光源氏すらもこの一族との縁を「宿世」と自覚するに到る。そして明石女御の第一皇子を出産して初めて、入道の信念の根拠となる過去の夢のお告げが、いわば種明かしの形で事後的に明らかにされる。
明石一族の「宿世」の意識は、若菜下巻、光源氏の住吉参詣の折にも見える。参詣に同道した明石の尼君は、女御にまでなった孫の栄達を喜びつつも、背後で支えた明石の君や尼君自身の長い忍従を振り返り、「いとかたじけなかりける身の宿世」(④172頁)と慨嘆、夫の明石入道と生き別れた悲しみを噛みしめる。一方で世間からはその内面は察せられず、「目ざましき女の宿世かな」(④175頁)と、ただ羨望される。
明石一族にまつわる数奇な「宿世」が、明石入道の夢を根拠に導かれてきた経緯は、明石一族の沈淪から栄達へという、非常に躍動感ある物語に関わっている。ただその入道の夢の脈絡は、若菜上巻になってから事後的に明らかにされ、いわば物語の構造が読者に種明かしされる形をとる。なぜこの明石一族の夢が種明かしの形で示されるのかといえば、当初は、光源氏の予言の脈絡の方が、この物語の根幹に関わる骨格として前面に出されていたからだろう。要するに、光源氏の予言の脈絡に導かれてきたはずの構造が、明石一族の夢の脈絡によって補われ、置換されるその過程に、「宿世」の意識が深く関わるのである。
『源氏物語』の初期の巨視的な構造には、光源氏の予言の物語がよく知られる。それと明石一族の「宿世」の物語とが大きな二つの軸となっていることは、多屋頼俊や日向一雅らにすでに指摘されている(14)が、いま一度叙述に即して検討し直したい。
光源氏は桐壺巻、高麗の相人の予言に導かれた桐壺帝によって、臣下に下された。
「国の親となりて、帝王の上なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにて見れば、乱れ憂ふることやあらむ。朝廷のかためとなりて、天の下の輔くる方にて見れば、またその相違ふべし」 (桐壺巻①39~40頁)
高麗の相人、人相見の言によれば、光源氏は天皇になれる資質だが、そうなると国が乱れ、さりとて臣下で朝廷の補佐役に終わるわけでもないという。この占いは、やがて光源氏が准太上天皇になるという歴史的にも例を見ない栄達に繋がる点で、作中人物の発言にとどまらない物語の長編構造の発端となっている。
これを第一の予言とすれば、光源氏については、若紫巻に第二の予言、澪標巻に第三の予言とも呼ぶべき叙述がある(15)。第二の予言は、藤壺との密通と、懐妊した際の藤壺自身の「あさましき御宿世」との自覚、王命婦による「のがれがたかりける御宿世」との感慨という、二度の「宿世」の語の直後に現れる。
中将の君も、おどろおどろしうさま異なる夢を見たまひて、合はする者を召して問はせたまへば、及びなう思しもかけぬ筋のことを合はせけり。「その中に違ひ目ありて、つつしませたまふべきことなむはべる」と言ふに、わづらはしくおぼえて、「みづからの夢にはあらず、人の御事を語るなり。この夢合ふまで、また人にまねぶな」とのたまひて、心の中には、いかなることならむと思しわたるに、…… (若紫巻①233~234頁)
光源氏は尋常でない夢を見て、夢占いに「つつしませたまふべきこと」があると、藤壺の懐妊と光源氏の不遇な一時期が暗示される。藤壺の懐妊や藤壺の「宿世」の自覚と不即不離に、光源氏の遠い将来を予感させる〈第二の予言〉が浮上する脈絡は、光源氏と関わることで藤壺が抱いた「宿世」の意識が翻って光源氏の人生に喰いこみ、光源氏の運命の変転を促す後の経緯を暗示する。ただしここでの光源氏には、「宿世」の意識は現れない。
前述の通り光源氏は、須磨でのわび住まいが長期化して、初めて「宿世」を自覚する。
かの御住まひには、久しくなるままに、え念じ過ぐすまじうおぼえたまへど、わが身だにあさましき宿世とおぼゆる住まひに、いかでかは、うち具してはつきなからむさまを思ひ返したまふ。 (須磨②207頁)
光源氏は「あさましき宿世」と驚きあきれる宿命を嘆きながら、紫の上を連れて来ることは思い留まる。先述のように河内本にはない本文だが、青表紙本の本文に従えば、若紫巻における藤壺の「あさましき宿世」の自覚と表現が同一であるから、これまでの藤壺の「宿世」の自覚を代替するかのように、光源氏に「宿世」の自覚が出現するのだとも解釈可能である。だが、光源氏自身は「宿世」を藤壺に関わらせては思考しない。光源氏にとっては、藤壺との関係は「宿世」と諦念する問題でないからだろう。ちなみにこの叙述の直後に、明石入道の「吾子の御宿世にて、おぼえぬことのあるなり」(須磨巻②210頁)との発言があって、光源氏の「宿世」の自覚は、明石一族の「宿世」意識と共鳴しているともいえる。
光源氏が次に「宿世」を自覚するのは、澪標巻、都への復帰後である。〈第三の予言〉は昨今の冷泉帝の即位や明石の姫君の誕生を受けて、「御子三人、帝、后かならず並びて生まれたまふべし。中の劣りは太政大臣にて位を極むべし」(②285頁)と、子供は天皇と皇后と太政大臣の三人だという、かつての宿曜道の占いを思い出す形となっている。桐壺巻の第一の予言の直後には、「宿曜のかしこき道の人に勘へさせたまふにも同じさまに申せば」(①41頁)と、「倭相」「宿曜」の占いも高麗の相人と同様だったとあった。ただし、桐壺巻の時点では「御子三人」の予言は叙述されてはおらず、澪標巻、不義の子冷泉帝の即位と関わって過去の予言が回想された体で、叙述の表層に浮上することが問題であろう。
光源氏は、桐壺巻で〈第一の予言〉によって、臣籍に下されて帝位につく可能性をなくした。しかし若紫巻で藤壺が「宿世」を痛感した後に、光源氏は夢という〈第二の予言〉を通して不義の子の懐妊を知らされる。そして澪標巻の〈第三の予言〉で、不義の子冷泉帝の即位実現が確認されることで、予言は信憑性を帯びるため、明石姫君が后となる将来も確信されてくる。すなわち光源氏の三つの予言は、当初は藤壺の「宿世」が、後には明石一族の「宿世」が支える形で実現されていくのである。
さてこの〈第三の予言〉に続いて、光源氏は「宿世」を自覚する。
みづからも、もて離れたまへる筋は、さらにあるまじきことと思す。あまたの皇子たちの中にすぐれてらうたきものに思したりしかど、ただ人に思しおきてける御心を思ふに、宿世遠かりけり、内裏のかくておはしますを、あらはに人の知ることならねど、相人の言空しからず、と御心の中に思しけり。いま行く末のあらましごとを思すに、住吉の神のしるべ、まことにかの人も世になべてならぬ宿世にて、ひがひがしき親も及びなき心をつかふにやありけむ、さるにては、かしこき筋にもなるべき人のあやしき世界にて生まれたらむは、いとほしうかたじけなくもあるべきかな、このほど過ぐして迎へてん、…… (澪標巻②286頁)
「御子三人~」の予言を反芻した直後に、光源氏は、「もて離れたまへる筋は、さらにあるまじきこと」と、自身が即位したりしてはならない、桐壺帝が多くの皇子の中で自分を格別にかわいがってくれたのに、臣下に下した判断を守るべきと考え、「宿世遠かりけり」と慨嘆する。冷泉帝が即位したことで、世間は知らないながらも高麗の相人の占いは正しいとわかったからには、光源氏は「宿世遠かりけり」と自分自身が帝にならないという自らの「宿世」を引き受けることで、明石の君の「世になべてならぬ宿世」を尊重し、娘の将来にかけるのである。三つの予言に関わって、光源氏に「宿世」の自覚が出現するのは、ここが最初で最後である。その後、明石の姫君の誕生五十日の祝いに際して「わが御宿世もこの御事につけてぞかたほなりけり」(澪標巻②294頁)と反芻する。この光源氏の「宿世」の自覚が、明石入道の「宿世」の意識と全く同様であることは、前述の通りである。
光源氏の生涯を巡る三つの予言と、明石一族の命運をつかさどる夢のお告げの脈絡とは、この物語の巨大な長編構造の二つの大きな軸だが、その提示のなされ方は異質である。光源氏の三つの予言は、茫漠とした予言が先にあり、次第に内実が確かめられ、ついに准太上天皇になる形で実現する。一方、明石一族の数奇な「宿世」は、当初は明石入道の偏屈な思い込みに見えるが、結果的には光源氏の予言同様、夢のお告げの結果だったと判明する形となっている。
こうした光源氏と明石一族の交錯する「宿世」は、実は、藤壺の「宿世」の自覚と差し替えに出現する点が特徴的である。先述のように藤壺の「宿世」の自覚は、若紫巻の藤壺の不義と懐妊の折、賢木巻で再び光源氏が懸想した折、須磨に下った光源氏から手紙が届いた折に出現する。これらは光源氏の第二の予言とまつわりつき、次第に須磨にいる光源氏自身に「宿世」を自覚させるものの、その後の光源氏はむしろ明石一族の「宿世」に巻き込まれていく。光源氏は須磨に下る以前は藤壺との脈絡で須磨行を捉えながら、そこに紫の上を巻き込めないと感じ、一方で次第に、明石一族との関わりが深くなるにつれて、明石一族との出会いのために須磨に下ったのだと自認するようになる。
すなわち、光源氏の三つの予言は、当初は藤壺の「宿世」の自覚をいわば犠牲にしながら支えられ、次第に明石入道の「宿世」の言葉に導かれた明石一族の生き方が、ひいては光源氏までも巻き込んでいく。その意味で、作中人物の「宿世」の自覚は、この物語のやや奇想天外な展開を合理化する方法として、働いているのだともいえよう。
光源氏の晩年の物語、いわゆる『源氏物語』第二部では、人々が次々に出家を果たす。その出家と「宿世」の自覚の関係についてはかつて論じた(16)が、ここでは藤壺や明石の君の「宿世」を引き受けた光源氏の晩年の「宿世」の自覚について考えたい。
若菜下巻、冷泉帝の譲位後、光源氏は自らの「宿世」を自覚する。
六条院は、おりゐたまひぬる冷泉院の御嗣おはしまさぬを飽かず御心の中に思す。同じ 筋なれど、思ひ悩ましき御事なうて過ぐしたまへるばかりに、罪は隠れて、末の世まではえ伝ふまじかりける御宿世、口惜しくさうざうしく思せど、人にのたまひあはせぬことなればいぶせくなむ。 (若菜下巻④165~166頁)
冷泉帝は、皇子がいないまま譲位した。光源氏の血は明石姫君を通して皇統に残るものの、藤壺との不義の子の冷泉帝を通じては皇統に子孫が残らない。光源氏は内心無念に思い、「御宿世」を自覚する。藤壺との不義の子の脈絡から光源氏の「宿世」が自認される点では、ここが最も鮮明である。
一方で、六条院の女楽の夜、光源氏は紫の上に語る。自分が須磨に行った不遇な一時期には苦労もあったが、後宮で競い合う皇妃よりも親元のように安泰に暮らせたろう、「人にすぐれたりける宿世とは思し知るや」(若菜下巻④207頁)と、女三宮が降嫁して苦しかったろうが、紫の上自身の格別の「宿世」はわかっているはずだと語る。その夜、紫の上は、女三宮の元に光源氏が去った後、一人考える。
げに、のたまひつるやうに、人よりことなる宿世もありける身ながら、人の忍びがたく飽かぬことにするもの思ひ離れぬ身にてややみなむとすらん、あぢきなくもあるかな、ど思ひつづけて、夜更けて大殿籠りぬる暁方より、御胸をなやみたまふ。
(若菜下巻④212頁)
なるほど言われたように過分な「宿世」だったが、「忍びがたく飽かぬこと」、耐え難く満たされない点でもこの上ない身だと嘆く。この思念の形は、薄雲巻で臨終の藤壺が生涯を回顧したものと酷似することは、つとに指摘される(17)。「飽かず」という生涯の痛恨と「宿世」が不即不離に認識されるのも特徴的である。同時に、光源氏と紫の上の対話を通して「宿世」の自覚が二者の間で往復する点が、いかにも光源氏晩年の物語らしい。
光源氏自身、紫の上没後、よく似た形で生涯を繰り返し反芻する。
「この世につけては、飽かず思ふべきことをさをさあるまじう、高き身には生まれながら、また人よりことに口惜しき契りにもありけるかなと思ふこと絶えず。世のはかなくうきを知らすべく、仏などのおきてたまへる身なるべし。それを強ひて知らぬ顔にながらふれば、かくいまはの夕近き末にいみじき事のとぢめを見つるに、宿世のほども、みづからの心の際も残りなく見はてて心やすきに、今なむつゆの絆なくなりにたるを、これかれ、かくて、ありしよりけに目馴らす人々の今はとて行き別れんほどこそ、いま一際の心乱れぬべけれ。いとはかなしかし。わろかりける心のほどかな」
(幻巻④525~526頁)
光源氏は自分のお手付きで、紫の上にも仕えた女房、中納言の君、中将の君らを前に、先の藤壺や紫の上同様、自己の人生の格別の栄華を認めつつ、深い憂愁を慨嘆する。ここでの「宿世のほど」の自覚は、晩年に「いみじき事のとぢめ」、すなわち紫の上の死を受けつつも、それにとどまらない自己の人生の総体を「宿世」と捉えたと解せる。遠い過去の藤壺を淵源とし、明石一族の「宿世」による忍従に支えられた栄華をも享受しながら、紫の上の自覚した「宿世」の形を光源氏が引き受け、なおも容易に出家を実現できない光源氏が鮮明に印象付けられる。かつて何度か論じたように(18)、『源氏物語』は仏教的な解脱を理想とはせず、あくまで俗世にありながら執着を捨てきれない人々の物語なのである。